桜木さんによって「姫にされる」という現象

 

 

 いよいよ末期だなと思った。いつも「何言ってんだ?」ってグレゴリーアナトリー兄弟を眺めるクレマンみたいな顔したくなるようなツイートばかりしていますが、「ついにネジ何本か外れたんだな?」って思った方きっといますよね?私です。

 

 

 カジノ・ロワイヤル観劇遠征を終えた私は、かろうじて出勤して余韻に浸りながら休日の遠征期間の思い出に浸っていました。本当にもう、幸せすぎた観劇遠征の記憶の数々を思い出し、ついには休憩中スマホ残していた観劇時の感想メモを読み返して感慨に耽るにつれ、ふとついて出た言葉が

 

「姫にされる……

 

でした(笑)なに(笑)

 

(誰かにとってのご贔屓様がそういう存在であるケースがあるということで、私にとってそれがずんさんだったという話なのですが、桜木みなとさんの磨いてきたスキルのひとつかもしれないので敢えてこのタイトルにした。ということでここは一つお願いします。)

 

 これをまぁいつも通り思いつくままついつでズンと投げまして、心優しくリプライをくださったフォロワー様に何か返そうと、そんな5文字じゃなくてもうちょい詳細に伝えたいと思った時、数ヶ月前感じていたまた別の思考回路がズンとでしゃばってきました。だいぶ前に浮かんでいた点と、今さっきこぼれてきた点を繋いで線に出来る気配を感じ、スマホのメモ機能を起動しました。

 

 

『自分の知らない自分。肩肘張ってないただの私。』

 

 

 【ヅカ】という情緒もへったくれもないメモフォルダの中に、ある日のハイロー幕間に残していたこんなダイイングメッセージ(カプチョでずんさんに仕留められるので)。

 

 ずんさんの前だと強がらなくていい、仕事用の私を作り上げなくていい。

 そのままの私でときめいて、好きだなぁと幸せを噛み締めて、飾らない言葉を便箋に綴ればいい。強そうに見せなくていい。しっかりしてそうに見せなくてもいい。いち大人としては弱さになるところを、そのままさらけ出してもきっと大丈夫。

 概ねそんな意図を書き残したメモで、冒頭謎の姫発言とのベン図の重なりを感じた。

 

 

 桜木みなとさんが見せてくださる姿や、聴かせてくださる声、ファンに向けて発してくださる言葉は、私にそわそわしてしまうようなトキメキや物語に登場する少女のような夢々しい感情の昂りを覚えさせる。これを先程の私はおそらく「姫にされる」と定義した。

 

 さてその「そわそわするトキメキ」や「ゆめゆめしい感情の揺れ方」といういかにも女の子らしいものは、「公」の私からは遠く離れた概念であり、「私」だとしてもとっくに少女ではなくなった成人女性である自分や普段の自分を冷静に見つめると恥ずかしく感じてしまう、いわば羞恥の対象。それゆえの気恥ずかしさはまぁまだ慣れないし否めないけれど、そうしたトキメキを抱く自分は、二十代後半まで歳を重ねた私の中でもたしかにそこに「いる」ことになる。

 

 そう、総理大臣だろうと母親だろうと弁護士だろうと父親だろうと先生だろうと学生だろうと、桜木みなとさんの男役芸の前では「ただの人」にすぎない。こちらが社会生活のために着込んできた鎧では防げないのだ。そしてそういった肩書きをかなぐり捨てて、本来の自分らしい感性で心を動かすことができる。そのことの幸せさといったら。

 そしてこれが本当に驚くことで、リアルな恋愛感情とはまた違う、不思議なもので。ずんさんと出会うまでの、今までの私の中にはなかった感情。あの日の四月、ネバセイのフィナーレを初めて観た時に初めて認識したえげつない甘味。こんな私らしくない感情の色が、私の中から溢れてきたことに本当に驚いた。

 

 

 コミュニケーションや認知に関する心理学の考え方の一つに、【ジョハリの窓】というものがある。

 自分が認識している・していない/他者が認識している・していない、の2本の軸でスペースを区切り、自己分析をしていくツールである。

 ずんさんがその一挙手一投足いちフィナーレで引き摺り出してきた「お姫様みたいな私」は、このうち【未知の窓】に潜んでいたもので、ずんさんが磨いてきた「桜木みなと」さんのスキルによって【秘密の窓】へ連れ出されたのだろう。

 たしかにそこにいたけど、知らなかった私。それまでの人生で確実に育まれてきた私の感性の一部。私はよくツイッター上で幸せの表現の一種として「まーたずんさん私の新しい扉開く(怒)」と言ってるが、要はそういうことで。

 ずんさんのお仕事への、客席への、ファンに向けての愛が、ずっと影に隠れていた初めて出会う私を連れてきてくれる。それを気恥ずかしく思ってしまう私だけれど、それもまた私の一部で、それってなんてすごいことなんだろう。ずんさんはすごい。

 

 世間体を気にする自分自身によってずっと閉じ込められてきた「ときめくことが本当は好きだった私」は、そりゃあ突然肯定/享受してくれる存在が出来たら抗えない。そりゃあそうだ。だからずんさんにまた恋をする。ときめかせてくれてありがとう!って感謝したくなる。そしてまた劇場に足を運ぶ。誌面でお言葉に触れる。また好きになる。そりゃ沼だわ。

 

 私の「好き」はどちらかというと、「彼であり彼女が満足して笑顔で役者人生を走りきれるその日まで、心を寄せてプラスな感情を届けて可能な限り見届けていきたい」という感情が根底にある。もちろん男役を楽しんでいる桜木さんが好きだけれど、なんなら男役でも女役でもたぶん構わない。「顔が好き!!かっこいい!!無理!!」と騒ぐけれど、私がずんさんに向ける「激重(ただしプラス)」な感情の由来は決してふわふわした煌きを放つ甘いトキメキだけでなく、真摯な姿勢を感じさせてくださるお言葉や各種媒体からにじむ芸事への真剣さ、私たちに見せてくださるお人柄、ファンに誠実であろうとしてくださっていることが伺えるお言葉の端々など、枚挙にいとまがない。姫にしてくれなくても、ファンへのサービスが辛くても全然ついて行くのに。

 

 ……とはいえ、それはそれとしてときめくもんはときめく。

 男役さんであり、本来はそこにずんさんの中の人がいるとわかっているからこそのどこか冷静な、だけどたしかに幸せだと思える恋。ずんさんが「桜木みなと」さんとして向けてくださる最高のビジネスファンサービスに、ファンとして本気で応えて幸せにしてもらっている。いわゆる「ガチ恋」とかではなくて、だけど確かに恋焦がれている。心身ともに健康でいてほしいと願う。幸せでありますようにと祈る。次に客席から見つめる日のために少しでも胸を張れる私になっていたいと思う。まだまだ好きになって日が浅い私は、まだ繰り返しうっかり恋をしてしまっているけれど、愛していますと言える日は来るだろうか。

 

 

 もう何が書きたかったのかわからないくらい間延びしてしまいましたが、要は「普段は蓋をしている素直な少女のような心」が素直に喜んでいるんだろう、というのが「姫にされる」ということだったのでは?という話でした。私のままの私で、素直な感性で楽しませていただける場所を作ってくれてありがとうございます、ずんさん。これからもその懐の広さに甘えさせてください。

 

 遠征明けでクソデカ感情が止まらない故の謎長文でしたが、お目汚し失礼いたしました。